2026/08/05
取材記事
人を育て、ともに未来をつくる。 三井海洋開発がパラカヌー今井コーチを迎えた理由
目次
企業がスポーツ人材を「支援する」。その関係は、これまで多くの場合、競技を続ける選手を中心に語られてきました。では、次の世代を育てるコーチを企業が迎えたら、何が生まれるのでしょうか。
三井海洋開発と今井コーチの挑戦から見えてきたのは、支援する側とされる側を超え、互いに学び、育ち、新しい価値をつくる関係でした。
「ただ支援するのではなく、お互いの強みを生かし、長期的に支え合う関係にできる」
東京2020パラリンピックへの出場、そしてパリ2024への挑戦。選手として歩んできた今井航一さんが次に挑んだのは、「企業に所属しながら、パラスポーツのコーチとして次世代を育てる」という前例のない道を、自ら切り拓くことでした。
その思いを受け止め、コーチとして長期的に活動することを見据え、社員として迎えたのが三井海洋開発株式会社です。海と水という接点だけでなく、両者を強く結びつけたのは、正解のない状況でも自ら考え、挑戦できる人を育てたいという価値観でした。
今回は、今井航一コーチと三井海洋開発 人事総務部長の伊藤隆廣さんに、出会いの背景、コーチを雇用する意味、そして企業とスポーツがともに育っていく未来について伺いました。
選手の次に選んだ、「育てる」という仕事

※対談する伊藤さん(左)と、今井コーチ(右)
今井コーチは、なぜ選手ではなく、コーチとして企業に所属する道を選んだのでしょうか。今井コーチ
東京パラリンピックを一つの区切りにするつもりでしたが、大会後に「もうひと頑張りしたい」という気持ちが湧き、パリ大会を目指しました。一方で、その後は選手として区切りをつけることも決めていました。
その先の人生を考えたとき、カヌーにはずっと関わっていたいと思いました。自分が探究してきたものをさらに深めたい、そして、次の世代へ伝えたい、そのために、コーチとして関わり続ける道を考えるようになりました。
コーチとして企業に所属するのは、前例の少ない選択だったのではないでしょうか。今井コーチ
そうですね。選手を企業が支援する例はありますが、コーチが安定して次世代を育成できる環境は、ほとんど整っていません。アスリートの就職支援を行う会社に相談した際にも、「前例がない」と驚かれ、遠回しに難色を示されたこともありました(笑)。
応募した企業には、まず「パラスポーツを取り巻く環境」「なぜ選手ではなくコーチなのか」「コーチを雇用することで、企業や社会にどのような価値が生まれるのか」を具体的にイメージしていただくところからのスタートでした。いわば、すでに用意された採用枠に応募するのではなく、その道の必要性から提案していた感覚です。
実際に多くの企業へ提案しましたが、なかなか採用には至りませんでした。それでも、コーチ層を支える仕組みがなければ、競技全体の発展にはつながりません。私の考えの意義と価値に共鳴してくれる企業は必ずあると自分に言い聞かせ、応募書類の提出や面接のたびに、自分なりに言葉を尽くして伝えました。実現までに約2年かかりましたが、諦めずに続けて本当に良かったと思っています。
「今井さんが圧倒的だった」

三井海洋開発との出会いについて教えてください。今井コーチ
先ほどお話ししたような提案活動を続ける中、2024年5月のパリ大会世界最終予選で出場を逃し、以前の所属先との契約終了も迫っていたため、少し焦りもありました。そんなタイミングで、三井海洋開発のお話をいただきました。
水や海とのつながりが自然に感じられたことに加え、面談を重ねる中で、自分と会社が将来どのような形を一緒につくっていけるのか、イメージを持てたことが大きな決め手でした。
伊藤さんは、初めて会った今井コーチにどのような印象を持ちましたか。伊藤さん
今井さん以外のアスリートともお会いしましたが、今井さんは圧倒的でした。競技に取り組んできただけでなく、自分の人生経験やパラスポーツを取り巻く状況を深く考え、自分の言葉でお話しされていました。
今井さんなら、社員に良い刺激を与えてくれる。コーチとして明確な将来像を描いており、一緒に取り組むことが会社にとっても新たな価値につながる。今井さんと話すほどに、そうした確信が深まりました。
海洋開発の会社と、パラカヌーのコーチを結んだもの
三井海洋開発では、もともとスポーツ人材の雇用を検討していたのでしょうか。伊藤さん
今井さんとご縁ができる数カ月前から、アスリート雇用を考え始めていました。当社は日本国内での売り上げがない珍しい会社です。その中で、日本社会への貢献として何ができるかを考え、当社の事業とつながりのある海や水に関わる方であれば、雇用という形もあり得るのではないかという話になりました。
そのタイミングで今井さんのプロフィールを拝見し、東京パラリンピックに出場した後、コーチを目指していることを知りました。「まさにこれだ」と感じたのを覚えています。

※三井海洋開発 人事総務部長 伊藤さん
お二人に共通していた価値観は何だったのでしょうか。伊藤さん
当社の仕事では、前例やマニュアルをそのまま使えるとは限りません。案件ごとに状況が違い、正解のない中で考え、判断し、前へ進む必要があります。
都合の悪いことも隠さずに伝えること。そのうえで、柔軟に考え、先を読み、全体を見て判断し、最後は自分で決断する。そうした人を育てたいと考えています。困難や制約を受け止めながら挑戦を続けてきた今井さんの姿勢は、当社が大切にする価値観と重なっていました。
今井コーチ
障害を負ったことも含め、人生では何が起きるか分かりません。起きたことを受け入れながら、その状況の中で挑戦を続けることが大切だと感じています。
三井海洋開発の歴史を伺い、誰もやっていなかったことに挑戦し、困難な時期にも事業を続けてきたことを知りました。その精神には、自分自身の歩みと重なる部分があると感じました。
なぜ、選手ではなくコーチだったのか
企業にとって、コーチを雇用することにはどのような価値がありますか。伊藤さん
選手を応援すること自体には意義があります。ただ、企業と選手が互いにどのような価値を生み出せるかは、場合によって見えにくいところがあります。
一方、コーチであれば、今井さんが持つ人材育成や指導の知見を社員も学ぶことができますし、会社も今井さんに実践や発信の場を提供できます。当初からコーチ採用を想定していたわけではありませんが、今井さんと出会ったことで、「こういう形があるのか」と気づきました。
ただ支援するのではなく、お互いの強みを生かし、長期的に支え合う関係にできる。そこに大きな可能性を感じました。
今井コーチ
私の考えを理解していただけたことが、本当にうれしかったです。コーチを支えることは、一人の選手だけでなく、その後に続く選手や競技全体を支えることにつながります。
自分自身も、企業に支えていただくだけではなく、会社や社会に何を還元できるのかを考え続ける責任があると思っています。

今井コーチとの今後の関係について、どのような考えをお持ちでしょうか?伊藤さん
今井さんとは、数年間だけではなく長期的に一緒に取り組みたいと考えています。当社の事業も長期間にわたって継続するものであり、長期という価値観が合っています。
中途半端に社内業務をしていただくより、今井さんが最も力を発揮できる分野で活動していただく方が、会社や社会への還元も大きい。長期的な視点で考えるほど、コーチという立場は当社に合っていると感じました。
コーチが社員を育て、会社がコーチを育てる
入社後、今井コーチの経験は、社員や組織にどのような変化をもたらしていますか。伊藤さん
今井さんと社員の交流会を実施したほか、社内ブログで、人を育てる際の考え方や、困難に直面したときの心構えなどを書いていただいています。
社員からの反応は非常に良く、「仕事にも通じる」「新しい見方を得られた」と受け止められています。特に、人を動かす管理職やマネージャーにとって参考になることが多いです。
企業は本業に集中するほど、視野が狭くなりがちです。今井さんやパラカヌーとの関わりは、社員が自分たちの仕事を別の角度から捉えるきっかけにもなっています。
会社との関わりを通じて、今井コーチ自身にも変化はありましたか。今井コーチ
カヌーの指導以外への関心は、この2年間で大きく広がりました。自分が本当にやりたいのは、カヌーを教えることだけではなく、人が持っている可能性を広げることなのではないかと気づき始めています。
たまたま自分にとって、その表現手段がカヌーだったのだと思います。自分の経験を競技の中だけにとどめず、会社や社会へどう伝えられるのか。今後は視野を広げ、人の可能性を広げる活動を具体的な行動に移していきたいです。
水上を、人が成長する教室に
今後は、水上での経験を人材育成にも生かしたいと考えているそうですね。今井コーチ
自分が最もなじみのあるカヌーや水辺のスポーツを通じて、人が学び、成長できる場をつくりたいと考えています。
水上は、日常ではあまり触れない環境です。限られた条件の中で状況を把握し、自分で判断しなければなりません。水という環境を活用して、決断力や対応力など、人生を豊かにする力を学べる場をつくれたらと思っています。
伊藤さん
水上では判断を誤れば転覆することもあり、自分で状況を見て決断する必要があります。また、会社での役職や上下関係は関係ありません。誰もが同じ条件で、自分の判断と行動に向き合います。その意味では、究極のバリアフリーとも言える環境です。
まずは今井さんが考えていることを当社で試し、良い形になれば社会にも展開していく。そのための壁打ち相手や実験の場として会社が関わり、同時に社員も学ぶ。そうした循環をつくりたいです。
支援ではなく、共創へ
最後に、この取り組みをどのような未来へつなげたいと考えていますか。今井コーチ
コーチを企業が支えることが一つの選択肢として広がれば、特定の一選手だけでなく、その後に続く選手や競技全体を支えることにつながります。人を育てる存在を支える価値が、一つひとつの実践の積み重ねを通じて少しずつ社会に認められ、広がっていけば良いなと思います。
一方で、コーチを雇用する意義は、アスリート引退後の受け皿となることだけにあるのではないと考えます。伊藤部長のお話にもありましたが、企業とコーチが互いの強みを生かし、ともに価値を生み出せる関係であることが重要です。
私自身も、カヌー競技とコーチ活動を通じて培った経験を、人の可能性を広げる具体的な行動へと変え、まずは会社へ、そして社会へと還元することで、その責任を果たしていきたいと思います。
伊藤さん
今井さんとの取り組みが、一つのモデルケースになればと思っています。人を育てることを真剣に考えているコーチの思考や実践は、社員にとっても必ず参考になります。
今井さんが選手を育て、その経験から社員が学び、社員が成長することで会社も変わる。そして会社で生まれた取り組みを社会へ広げていく。そうした循環を育てていきたいです。

※対談後の今井コーチ(左)と、伊藤さん(右)
おわりに
選手を育てるコーチが育ち、コーチとの関わりを通じて社員が育ち、社員の変化によって組織も育っていきます。そして、そこで得た学びが競技や社会へ還っていきます。
三井海洋開発と今井コーチが目指しているのは、「支援する企業」と「支援されるスポーツ人材」という関係ではありません。互いの可能性を広げ、ともに学び、新しい価値を生み出すパートナーとしての関係です。
人を育てることは、企業を育て、スポーツを育て、未来を育てることです。両者の挑戦は、企業とスポーツの関係を「支援」から「共創」へと進める、新しい一歩になろうとしています。
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